カンボジア-Cambodia-
16日目。9月2日。
朝起きて、近所の売店でバゲットを買い、バスに乗り込む。
そういえば、ラオスとベトナムは、もともとフランスの領地だったため、フランスパンがうまい。
焼き豚や香草など色々なものが挟まっていて、お腹もいっぱいになるし、口にも合う。
バゲットをほおばりながら夢のようなシャイとの再会に思い出し笑いをしつつ、
私は最終的にいい思い出で終われたベトナムを後にした。
フランスパン
(上)ラオスで食べたフランスパン。本当においしい。

ベトナムとカンボジアの国境。
オンボロの小屋がイミグレーションオフィスで、そこに一気にエライ人数が押しかけている。

・・・みんな、並ぼうぜ?

ただでさえ暑いのに、そんな中でみんな押し合いへし合い、小屋の中でギチギチになっている。
中国人とベトナム人が多く、彼らは数十冊のパスポートを束にして出している。
コンノヤロ、そんな事したら私の番回って来ないじゃねーかよ!
後々の話だと、彼らはワイロを渡して先にスタンプをもらっていたらしい。
そんな事知らない私は(知っててもお金なんて出さなかっただろうけど)1時間以上かかって手続きを終えた。

プノンペン-Pnom Penh-
バスはカンボジアへ入り、夕方にキャピトルホテルという、ツーリストの間では超有名なオフィシャルホテル(と言っても安宿)に止まった。
翌朝にはシェムリアップへ発つため、プノンペンは今晩のみの滞在になる。
せっかくだし本当は観光したいのだが、着いたのは夕方で、今から1人歩きはコワイ。
宿の兄ちゃんに、仕事終わったら一緒にご飯行こうよ〜なんて逆ナンしてみたのだが、
「案内はするけど先に帰る」とか微妙に釣れず、仕方ないので宿にくっついているレストランで晩ご飯を食べる事にした。

レストランに行くと、ベトナム人の男の人が一人でご飯を食べていた。
彼はホーチミンからのバスで一緒だった人で、お互い顔は知っていたので、一緒にご飯を食べる事にした。
私は、彼、タンと一緒にビールを飲みつつ、本当はプノンペンの街が見たいけど宿の兄ちゃんにフラれた話をした。
するとタンは、「よし、じゃあオレと行こう!」と言い出し、私は適当に宿の周りを散歩できれば良かったのだが、ちょっと離れた河まで歩く事になった。

河までの道で、タンは色々な話をしてくれたのだが、私は全く聞いていなかった。だってコワかったんだもん。
プノンペンの夜は、街灯のない道も多く、本当に暗い。
「あ、あの木の影から誰が出てくるやも知れぬ…」
ひったくり防止にバッグを握り締め、胃はすでにキリキリしている。
タンはとても小柄で華奢な体をしており、多分男が襲いかかってきたら、タンに助けてもらう事は不可能だろう。
もしかしたら私がタンを助けるかもしれない…などと考え、無事に河までたどり着いた時には、本当にホッとしてしまった。

私達は川辺に座って街を眺めた。
もう時刻は10時かそれくらいを回っているのに、小さな子供達も元気に走り回っている。
大人達もそれぞれご飯やらおしゃべりを楽しんでいる。
門限なんかないのだろう、みんな思い思いに過ごしている。
ちょっと視点を変えて街を見ると、夜は夜の良さがあった。
帰り道もやっぱり怖かったのに変わりはないけど、でもタンのお陰でプノンペンの夜は退屈しないで済んだ。
むしろスリル満点だった。

シェムリアップ-Siemreap-
17日目。9月3日。
朝7時半のバスで、いよいよアンコール・ワットのあるシェムリアップという街へ向かう。
カンボジアの風景は私の心にとっても染み、6,7時間のバス旅はあっという間に終わり、シェムリアップに着いた。
ベトナムとは打って変わって、カンボジアに入ってから私の体調はすこぶる良い。
日本で旅の計画をしていた時から、カンボジアには何か感じるものがあったが、いささかそれも間違いではなさそうだ。

バスは「Ta Som」というゲストハウスに止まった。
バスの乗客は、それぞれ思うゲストハウスがあるのか、そこからどんどん散っていったが、
私はプノンペンからバスに乗っていたスタッフにマークされており、
その人に促されるままに、そのTa Somゲストハウスに入った。
部屋はそんなに悪くないし、値段も$3と手頃だ。

ここに決める前に、私はそのスタッフ、トレンにひとつ質問をした。
「信頼出来るバイタクはいる?」
ここシェムリアップのアンコール遺跡は、バイタクを1日いくらでチャーターして回ってもらうのだが、
ガイドブックによると、バイタク選びを間違えると、人のいない道に連れ込まれ、お金を要求してきたり、女の子なら襲われたりという事があるという。
ある日本人の女の子は、なんとシェムリアップで3人がかりでレイプされたらしい。
それを聞いてすっかりびびっちゃった私は、バイタクだけは信頼出来る人を、と思っていたのだ。
するとトレンは、「俺がバイタクやるよ」と申し出てくれた。
プノンペンからついて来てるトレンは間違いなく信頼出来る。私はトレンにバイタクを頼み、そしてここに泊まる旨を伝えた。

一休みして、早速私はプノンバケンという有名な夕日スポットに夕日を見に行く事にした。
この日は残念な事に雲が出ており夕日は拝む事が出来なかったのだが、なんとタンに再会した。
タンはボートで向かうという事で、別ルートだったのだが、世間というのは狭い。
タンは今日シェムリアップに着いて、明日の夕方にはベトナムに帰るのだという。
隣国だから出来る、ハードスケジュールだ。
タンと再会
(上)プノンバケンにてタンと再会。童顔だけど実は三十路。

プノンバケンから帰って来ると、宿に日本人のグループがいた。
みんな、夜にアプサラというカンボジアの伝統舞踊付きのディナーを食べに行くらしい。
私も一緒に連れていってもらう事にした。
アプサラ1 アプサラ2
(上)アプサラのショー。$10と高かったが、まぁ記念でしょう。

18日目。9月4日。
この日は朝日を見ようという事で、朝5時半にトレンが迎えに来る事になっていた。
しかし昨夜にツーリスト達と夜遅くまで飲んでしまった私はすっかり寝坊し、トレンの5時半のノックで目が覚めた。
ダッシュで準備し、トレンもバイクを飛ばしてくれた。
しかし、昨日に続きまだ雲が晴れず、朝日というよりは朝焼け、という感じだった。
・・・まいいや。肝心なのは雰囲気ですから・・・。
朝日
(上)アンコール・ワットからの朝日。朝からたくさんの人が集まっていた。

朝日を見た後、私はそのままアンコール遺跡巡りをスタートした。
まずはアンコール・ワットの中へ入る。壁一面にデバダーと呼ばれる女の人の彫刻がほどこしてある。
昔の人はこんな垂直の壁に、こんな固い岩に、どれくらいの年月をかけて、どのように彫っていったのだろう・・・?
そして私はまたタンに会った。再々会である(笑)。
タンからの写真 アンコールの階段
(左)タンがアンコール・ワットの頂上から、上ってくる私を撮ってくれた。(右)アンコール・ワットの階段はとっても急。

アンコール・ワットを一通り見た私は、近くの売店で軽く朝食を済ませ、次の遺跡へ移った。
これは私的にアンコール遺跡の中でカナリ上位にランクインする遺跡、バイヨン(Bayon)だ。
この遺跡はヒンズー教のアンコール遺跡の中における数少ない仏教の遺跡で、大きな顔がたくさん壁に彫刻されている。
私はいつまでも飽きる事なくバイヨンの周りをグルグルと見て回った。
バイヨン1 バイヨン2
(左)フォトグラファー風に撮ってみた自慢の写真。(右)バイヨンの顔と私。

バイヨンに感動した私は続いてバプーオン(Baphuon)、王宮(Royal palace)、クリアン(Khleang)、プラサット・スゥル・プラット(Prasat Suor Prat)、
ライ王のテラス(Leperking Terrace)、象のテラス(Elephant Terrace)、タ・ケウ(Ta Kev)、トマノン(Thommanon)、タ・プローム(Ta Prohm)、
スラ・スラン(Sras Srang)、バンデアイ・クデイ(Banteay Kdei)と次々精力的に見て回った。
なんかもう何がどんな遺跡だったかあまりよく覚えていないのだが、印象の強かった遺跡だけ少しピックアップすると

<王宮>王宮の横には池があり、その池で小さな男の子が3人くらい、水浴びをして遊んでいた。
彼らは私を見つけると寄ってきて、この遺跡の歴史などを説明し始めた。
最初は私も「ウン、ウン」と聞いていたのだが、途中で「あ、こいつらガイド料請求する気だな」と気づき、
「お金だったらあげる気ないからね」と釘をさしたのだが、それでも私についてきて、説明を続ける。
そして、私が池を去ろうとすると、やはり「1ドル」と言う。
「払わないって言ったべ!」
「じゃあ1キスでいいよ」
…な、なんてシャレた事を言うんだこの子達は…!

笑顔で「1キス」なんて言う子供達のあまりのかわいさに、「写真撮ってもいい?」と聞くと、
「写真、1ドル」
「じゃあ撮らないっ!」
・・・私もそんな1ドルくらいケチケチする事はなかったのだが、基本的に物乞いをはじめこういう場合にお金はあげたくなかった。
そして王宮を去ろうとすると、
「学校で勉強するためにペンをちょうだい」と、私のバッグのポケットから見えるボールペンを指差して言う。
「・・・」
私は彼らにボールペンをあげて、バイバイした。
1ドルをあげたり、ボールペンをあげたりする事で、彼らの助けになったのかなぁ・・・?


<タ・プローム>ここは、大きなガジュマルの木で有名なアンコール遺跡のひとつである。
木が遺跡に覆いかぶさるように生えていて、一部では木が遺跡を破壊しているところもある。
自然の強さと、アンコール遺跡がどれだけ昔からあったかという事を感じさせてくれる遺跡だ。
私はここでなぜか中国人の観光客に、一緒に写真を撮ってくれと頼まれて、なぜかタ・プロームを背景に記念撮影に応じていた。
タ・プローム1 タ・プローム2
(左)もう崩れていて、立ち入り禁止になっている場所も多い。(右)タ・プロームのガジュマルの木。マジでかい。

<バンデアイ・クデイ>ここは、あまり有名ではないが、私のお気に入りになった遺跡のひとつだ。
アンコール遺跡というのは、主に2つの様式から出来ている(と思う)。
1つは、アンコール・ワットのように、山型になっていて、階段を上っていく形。
そしてもう1つがこのバンデアイ・クデイをはじめとする、平らで、真っすぐの道が続く平面型
私はこの平面型の遺跡が好きで、特にここバンデアイ・クデイは、デバダーがキレイに残っているところが多く、カナリ長居してしまった。
バンデアイ・クディ1 バンデアイ・クディ2
(左)壁に残っていたきれいなデバダー。  (右)バンデアイ・クディと私。

昼食をとり終え、日差しもカナリ強くなってきたので、宿に帰って昼寝でもしようかと思っていたら、
トレンは、「もう1度アンコール・ワットへ行け」と言う。
どうやら太陽の向きの関係から、アンコール・ワットは昼過ぎから行くのがいいのだと言う。
「朝に結構見たからもういいんだけど・・・」と思いつつ私は疲れた体にムチを打って、アンコール・ワットへ向かった。

アンコール・ワットの頂上に着くと、いきなりスコールが降り出した。カナリ強い。
アンコール・ワットは柱で出来ていて壁というものがないので、モロ受ける。私は太い柱の影でスコールが止むまで粘った。
アンコール・ワット スコール
(左)昼から向かったアンコール・ワット。    (右)頂上に着いた途端降り出したスコール。

スコールも止み、バイクへ戻る道で、私はガイドブックに載っていた1つの記事を思い出した。
それは「歯を出して笑うデバダー」というもので、
昔の女の人は、噛みタバコを使用する人が多く、歯が汚かったため、歯を出している笑顔というのは貴重らしい。
私は一生懸命そのデバダーを探したのだが、どうしても見つからなかったのだ。
あきらめの悪い私は、出口のそばで、適当に歩いていたオッサンにガイドブックの写真を見せてみた。
すると、そのオッサンは運の良い事にアンコール・ワットに詳しい人だったらしく、私をそのデバダーまで連れて行ってくれた。
デバダーは、メインルートからちょっと離れた場所で、壁の裏側に彫られていた。
これは教えてもらわなかったら絶対にわからない場所だ。
そしてここには、歯を出して笑うデバダーの他にも、とても保存状態のいいデバダーが何体か残っており、
きっとほとんどの観光客が知らずに帰ってしまうであろう、この秘密のデバダーの発見に、
昼寝を惜しんで来た甲斐があった、とほくそ笑んだ。
歯を出して笑うデバダー キレイなデバダー
(左)歯を出して笑うデバダー。   (右)彫りが細かくて全体的に繊細なデバダー。

アンコール遺跡を後にし、次に私は地雷博物館へ向かった。
カンボジアは最近までの内戦で、まだまだ地雷がたくさん埋まっているのだという。
地雷博物館はとても小さかったが、たくさんの地雷が展示されており、
「タバコの先に爆薬を詰め、吸った瞬間に頭が吹っ飛ぶ」とか、そんな爆弾の種類がたくさん説明されていた。
前にトットちゃんの本を読んだ時、ぬいぐるみに爆弾を仕掛け、子供が抱いた瞬間に爆発する、というのを読んで衝撃を受けたが、
本当に戦争の痛ましさというか、人間の卑劣さを感じた。

続いて私はキリング・フィールドへ向かった。
キリング・フィールドは、中の寺で、お坊さんが子供達に無償で日本語を教えているのだそうだ。
大学で日本語教授法をとり、将来の夢のひとつが日本語教師である私にとっては願ってもみないチャンスだ。
私はハッチャキこいて生徒の前に立った。

大学では、「"は"と"が"の違い」とか、「"そこ"と"ここ"の違い」など文法的な事をやってきたのだが、このクラスはまだ初級で、五十音の続きをやっていた。
先生に「たくさん発音をさせてあげてください」と言われたのだが、
「りゃ、りゅ、りょ」「じゃ、じゅ、じょ」など、ネイティブでも繰り返してたら意味がわからなくなるような発音ばかりで正直困った。
しかし、子供達はみんなキラキラした目でこっちを見てくれる。
リピートも大きな声でしてくれるし、1人1人やるよーと言ったら自ら手を挙げて立候補してくれる。
電気のない薄暗い教室で、ホワイトボードに書いた文字を雑巾で消しながらするような授業だったが、本当に素敵だった。
日本語教授 お気に入り君
(左)日本語教授の様子。            (右)一番前の席でマジメに授業を聞いてくれた男の子。

この日の夜は、私達日本人5人と、カンボジア人のバイタク5,6人くらいで、を食べに行こうという話になった。
チュナンダイというカンボジア鍋は、肉は硬くてあまり頂けなかったが、他は日本の鍋と似ていておいしかった。
カンボジアの言葉で「乾杯」は「チョムーイ」と言うのだが、チョムーイをすると、持っているグラスを一気に空けなくてはいけない(らしい)。
私は酒の場でNOと言えない(言わない?)タチなので、何度もチョムーイし、カナリ酔った。
横に積んであったビール達はまたたく間になくなり、次にワインが出てきた。
ワインと言っても、何か麦茶でも入ってそうなプラスチックの容器に入っており、しかも栄養ドリンクを混ぜて飲む。
一見どうなのよ、という食い合わせだが、この栄養ドリンク割りは意外に飲みやすかった。

鍋の間、私の隣の席にはポリンというバイタクが座っており、今日来ているバイタクの中で一番かっこよかったので
「ハムサー、ハムサー」(カンボジアの言葉で"かっこいい"みたいな意味)とおだてたら逆に気に入られ、
ポリンは鍋の後、バイクの後ろに乗せてくれて、夜の市内観光へ連れて行ってくれた。
(ちなみにカンボジアでは、というか彼ら曰く、酒を飲んで運転してもそれは罪ではなく、酒を飲んで運転して事故を起こしたら罪なんだそうな。ごもっとも。
ポリンは川辺にバイクを止め、ベンチに座った。

カンボジアの男の人は、お金がとっても大事なステータスで、お金がないと彼女も出来ない(no money no honey)なんて話を聞き、
おぉ、うまく韻を踏んでいるなぁと感心しつつ、蚊よけにパチパチ腕や足を叩いていると、ポリンの携帯が鳴った。
どうやら他の日本人ツーリスト達とバイタク達は、みんなでナイトクラブ(=ディスコ)に行ったようで、誘いの電話だった。
・・・ディスコ!
ラオスでチャンに誘われたけど断ったディスコ。あーついに!!

早速ポリンに連れて行ってもらう。
このディスコがまたエライ面白い場所だった。
何より曲の構成が面白い。
最初はアップビートの、ありがちなテクノ音楽が流れているのだが、その後にはバラードがかかり、チークダンスタイムになる。まぁここまではいい。
そして次が何かというと。
アプサラ(カンボジアの伝統舞踊)音楽がかかったのである。
自然にみんな大きなひとつの輪になり、しなやかにアプサラを踊り出す。日本で言えば盆踊りのような感覚だろうか。
そしてアプサラを一通り踊ると、またアップビートの音楽がかかり、みんな踊り出す。
私はほとんど踊らず、近くの席から見ていた。見ているだけで十分にエンジョイ出来た。

19日目。9月5日。
この日は朝起きて、速攻カナリ遠いところにある、バンテアイ・スレイ(Banteay Srei)へ向かった。
ここのデバダーは東洋のモナリザと呼ばれるほど美しいのだという。
昨夜の飲みすぎをトレンに説教されているうちに、バンデアイ・スレイに着いた。
早速中に入ってみるのだが、気づいたら出口に来てしまった。
あわてて中に戻り、もう一度じっくり遺跡を見てみる。しかしどれがモナリザだかよくわからない。3周くらいしたのだが、でもわからない。
「・・・いいや。」
面倒くさくなった私は、結局モナリザがどれかわからないまま帰ってきた。
丁度この時バンデアイ・スレイは修復工事中で、どうやらモナリザは見づらい場所に隠れていたらしい。
バンデアイ・スレイ
(上)バンデアイ・スレイは他の遺跡と違い、赤土?赤っぽい遺跡でキレイだった。けどモナリザはわからず。

その後、トレンはクバール・スピアン(Kbal Spean)に行こうと言ってきた。
私は大して興味はなかったのだが、トレンがすごくいい場所だから、というので連れて行ってもらう事にした。
しかし、そこまでの道がエライひどい。
ボッコボコの道で、bumpingしまくりなのだ。しっかりつかまっていないと、本気でスッ飛ぶ。
疲れ切った頃、バイクは山のふもとに止まった。なんと遺跡は山の上にあると言うのだ。
・・・そんな体力ねぇよ、と思いつつ、ここまで来たからには見ずには帰れない、という意地で山を登った。

水遊びしてる男の子たち
(上)途中の道で、水遊びしてる男の子たち。私も全身浴びたかった・・・。

川から上がり、更に少し山を登ると、ようやく遺跡があった。
が、正直「えっ、これだけ・・・?」という感じだった。川の底に、何か彫ってある。
もっと大々的に何か彫ってあるのを期待していた私にとってはちょっと物足りなかった。
というかこれほど悪路に揺られ、必死で山を登り、その代償としてはどーなの、という感じだった。
クバール・スピアン1 クバール・スピアン2
(上)クバール・スピアンの遺跡。たどり着くまでの苦労のわりにはイマイチだった。

まぁそんなこんなでまたbumpingしながら帰り、それからタ・ソム(Ta Som)、ニャック・ポアン(Neak Pean)、プリア・カン(Preah Khan)を見に行った。
ニャック・ポアンは以前から見たいと思っていた遺跡だったので頑張れたが、他の二つはもうどうでもよかった。
私は疲れていたのでもういいと言ったのだが、トレンが「行け」というので仕方なく向かった。
タ・ソムはまだ頑張って見たが、プリア・カンはもう面倒くさくなって、途中で引き返し、入り口で待っていたトレンには良かったよ、と言った。
ニャック・ポアン
(上)ニャック・ポアンで見たかったもの。人の口から水が出る噴水。

へとへとになってゲストハウスに帰り、もう遺跡はいいやと思い、3日間通しのチケットだが明日は遺跡見物をしない事をトレンに言った。
「昨日と今日でいくら?」
「$30」
「は?!」
ツーリストから聞く相場では、1日5,6ドルが目安で、それに朝日や夕日を見に行く場合プラス2,3ドルと聞いていたので、せいぜい20弱かなと思っていたのだ。
「今日のバンデアイ・スレィとクバール・スピアンは別料金だから・・・」
「そんな事ひと言も言わなかったべ!ってかクバール・スピアンはオメーが行くって言ったんだべや!」
私の怒り具合を見てか、ゲストハウスにタムロしている他のバイタク達が寄って来た。
事情を説明すると、バンデアイ・スレィやクバール・スピアンまで行ったなら、$30は決して高くはないと言う。
料金について聞いてこなかったトレンも悪いが、きちんと話さなかった私も悪い。
いや、実際バイタクを使う時は、事前に値段交渉するのが鉄則なのだ。
でも、私はトレンなら大丈夫、と、ちょっと信頼し過ぎていたところがあった。私の非は否めない。
結局私は$25で手を打つ事にした。

しかし後味が悪い。
仲裁に入ってくれたバイタクの一人ヘンリーに「Are you OK?」となだめられ、OKじゃない私はポリンに甘いモノを食べに連れていってもらう事にした。
甘いモノがあまり好きじゃないというポリンを強引に席に座らせ、私はカンボジアン・スイーツを食い荒らした。

ゲストハウスに帰ってくると、何やら見覚えのある人影が。
「あーっ!」
俊くんとふっさんだ(笑)
ベトナムのニャチャンで別れた私達だったが、偶然にも再会してしまった。こんな事ってあるのね・・・。
俊くんとふっさんは今朝、朝日を見てきたらしく、今日はキレイに見えたのだそうだ。
しかしもう早起きする気力のない私は、後で俊くんにその写真を送ってもらうという事にした。
俊くんからもらった朝日
(上)俊くんからもらった朝日の写真。私の写真よりだいぶキレイ。

この日の夜、ポリンと一緒に晩ごはんを食べに行った。
近くの屋台で、2000リエル(0.5ドル)のフライドライスを食べ、その帰り道、私は空を見上げて思わず声をあげてしまった。
夜空の星がとにかくキレイなのだ。
星降る夜、なんて歌詞はよくあるが、なるほどこれは降ってくるかもしれない。
今までにこんなにキレイな星空は見たことがなかった。
私はポリンに道端でバイクを止めてもらい、しばし星空を眺めた。
写真にうまく残せなかったのがもったいない。この星空は、いつまで眺めていても飽きなかった。

20日目。9月6日。
昨日のお金騒動でウンザリしてしまった私は、明日にはここを出ようと思い、最後にお土産を買いに市場へ向かった。
土産モノを買うついでに甘味屋さんを発見したので、寄ってみた。
カンボジアでは、色んな具材をチョイスしてカップに入れて、最後に氷をかけて食べる(んだったような気がする)。
プリンやアイス、ゼリーなど、ちょっと衛生的に気になるようなものばかりだったが、私は2カップも食べた。

夕方になり、私は今日もキリング・フィールドへ日本語を教えに行く事にした。
今日も前と同じように「ピャ、ピュ、ピョ」「ギャ、ギュ、ギョ」など奇怪な発音練習を繰り返し、
クラスが終わった後は、寺の人達と立ち話に花を咲かせた。
前に初めて来た時に感じたのだが、私、坊主にモテモテなのだ。
タイやカンボジアなど、この辺りの仏教国では、女の人はお坊さんに触れる事が出来ない。
でも、お坊さんだって男だ。まして、この寺のお坊さんはほとんどが10代
女の子には触れないけど話はしたい。そんなこんなで私は坊主に囲まれていた。
途中お経をあげる時間になり、みんな寺に入るも、お経をあげながらこっちに素敵な笑顔を送ってくれる。
お経が終わればまたこっちに来て、自分のウォークマンの曲を聞かせてくれたり、「boy friendにしてくれ!」と言ってくるヤツもいた。
あぁ、マジ坊主サイコー。
キリング・フィールド1 キリング・フィールド2
(左)キリング・フィールドのお坊さんの一部。     (右)お寺に遊びに来ている兄ちゃん達。

キリング・フィールドから帰って来ると、ソップンという宿にタムロってるバイタクの一人が「drinking?」と声を掛けてきた。
最後の夜だし飲みたいな、と思った私は、ソップンの誘いに乗って、一緒に飲みに行く事にした。
ソップンともう1人の兄さんと、1台のバイクに3ケツし、ソップン行きつけの店へ向かう。
だいぶ街の中心から離れた場所にあるその店は、暗くてよくわからないが(本当に街灯も何もない)川か湖の上に建っているようだ。
私達はカエルヘビの卵などといった珍品料理を肴に、ビールでチョムーイした。
ソップンは誰に吹き込まれたのか、「ヨッパラッタッポイ?」と日本語で聞いてくる。
「ヨッパラッタッポイ?」「ヨッパラッタッポイ!」
辺りは真っ暗で他に人もおらず、竹で出来た小屋に敷いたゴザの上で酒を楽しんだ。
ソップンと レストラン
(左)ソップン。結構地元じゃブイブイ言わせてる色男らしい。(右)飲んだ店。奥にうっすら見えるのが、座っているソップン。

21日目。9月7日。
本当は今日の朝のバスでタイに抜けるはずだったのだが、昨日の飲みがとっても楽しくて、チケットを延期してしまった。
今日はポリンと、もう一人のバイタク、アモンと、新しく来た日本人の男の子と4人で、西バライ(West Barai)というところへ行く事になった。
西バライは大きな湖のような貯水池で、私達はその水辺でご飯を食べた。
昼だというのにアモンとポリンは一人3本ずつ、計12本のビールと、鳥の丸焼きと、カエルの焼いたのを買って持ってきた。
指で鶏肉をちぎり、レモンとコショウか何かのタレをつけて食べる。
これがなかなか美味で、ビニール袋に入ったご飯も進んだ。
私はなかなか肉もうまく取れず、ご飯も口に運べずだったのだが、ポリンに手伝ってもらっておいしく食べた。

この水辺は私達4人の貸切だ。
遠くでタイヤの浮き輪につかまって遊んでいる子供たちの声がする他は、波の音しかしない。
最初にアモンが横になり、気づいたらみんなハンモックにぶら下がり、昼間から気持ちよく酔って昼寝をした。

夜は、今度こそ最後の夜にしようと思い、アモンを飲みに誘った。
アモンはバイクの後ろに乗せてくれたが、軽く60kmは出している。
バイクだと体感速度は60kmをゆうに越えている。
絶叫する私を尻目に、いつもは80km出すと言う。ノーヘルなんだからやめてくれー・・・。

アモンは昨日ソップンが連れて行ってくれたような、湖畔(であろう)レストランに連れて行ってくれた。
最初は宿のバイタクの、アモンとティーとサルーという3人だと思っていたのだが、何やらゾロゾロ来る。
最終的には10人近くのカンボジアンが集結し、何だかすごいローカルな飲みになっていた。
ゲストハウスのバイタク達
(上)ゲストハウスにタムロっていて、いつも構ってくれたバイタク達。

22日目。9月8日。
今日こそタイに帰る・・・と思っていたのに、みんなが熱心に引き止めてくれたのに負け、思わずまたチケットを延期してしまった。軽く沈没。。
朝はここに来てから行きつけになった、ゲストハウスの前のシェイク屋でマンゴーシェイクを飲んだ。
ここのママとも顔見知りになっており、私はママのマンゴーシェイクが大好きだった。

その後、バイタク達に「Do you like soccer?」と聞かれ、よくわかんないけどyesと答えると、
ポリンのバイクの後ろに乗せられ、バイク何台もで連れ立って、どこかへ向かい始めた。
細い道を抜けると視界が開け、そこには空き地が広がっていた。木の枠のゴールがあり、どうやらサッカー場らしい。
男性陣は(というか私以外全員男)みんな裸足になり、サッカーが始まった。
私は隅に座って応援していたのだが、みんな本当に楽しそうだった。
20を過ぎた男達が、みんな夢中になって裸足でサッカーをしている。
誰かがゴールを決めると自然に休憩になって、袋入りの水を飲んだり、頭からかぶったり。
何の合図もなく気付いたらゲームは再開していて、でも休みたい人は横で寝ている。
この自然さが何とも言えず、心の底から「いいなぁ〜!」と感じた。
サッカー1 サッカー2
(上)サッカーしてるバイタク達。ホント楽しそうだった。。

23日目。9月9日。
ついに決心をして、この日の朝、カンボジアを出る事にした。
この朝もママのマンゴーシェイクを飲み、バスまでは一番親切にしてくれていたポリンが送ってくれた。
カンボジア・・・日本で旅の計画を立てている時から、ビビビと来るものがあったが、全く正解だった。
本当に本当に毎日楽しくて、時間があるならもっと長く滞在していたかった。
ポリンのバイクで タソムのkidsと
(左)一番イイ奴だったポリン。いつもこのバイクでどこでも連れて行ってくれた。(右)宿のオーナーの子供達と。

バスはシェムリアップの市内を抜け、タイとの国境へと走る。
・・・この移動、本当にキツかった。
バスはガタガタで、私は補助席だったのだが、右の方が下がっている。
道はボコボコで、体の大きい欧米人のツーリストたちは頭を打ちそうになりながら、小さく縮こまっていた。
そんな揺れの中でも、私は眠気に襲われ、意識が朦朧としてきた頃、周りの叫び声で目が覚めた。
気が付くと、みんな窓から外へ飛び降りている。
何?!
隣に座っていたツーリストも「ほら、早く!」と私を押し、私もわけがわからないまま窓から外へ飛び降りた。
どうやらバスからいきなり白い煙が発生したらしい。
バスは止まり、ツーリストが外で待つ中、運転手がバスを点検する。
「オーケー、カモン」・・・ホンマか?
まぁそれ以降煙があがったり爆発したりする事はなかったが、なんとも疲れるバスだった。

バスを降りて国境を越える。
入国審査をしたら、タイ側に新しいバスが待っているらしい。あいのりみたいだな。
私は疲れ切っていて、ノロノロと行動をしていたら、いつの間にか同じバスのメンバーとはぐれてしまった。
かろうじて1人、アメリカ人のおっさんを見つけたのだが、おっさんもよくわかっていないっぽい。
おっさんは、英語は世界共通語だとでも言わんばかりにマシンガンのような英語でバス乗り場を尋ねているが、タイ人には全く通じておらず、
「Oh, shit!!」みたいなアメリカ人っぽいリアクションと共にキレていた。
こういう場合、かえって私くらいの中途半端な英語の方が通じたりする。
そして、その結果わかったのは、私達はバスを乗り過ごしたという事だった。

仕方なく私達は、新しくチケットを買い直し、普通のローカルバスに乗る事になった。
おっさんは私の分のチケットも一緒に買ってくれた。
どうやら大学教授か何かのようだし(よくわからんが、韓国とオーストラリアの大学で英語を教えているらしい)
物乞いに500B(1500円相当)もあげていたのできっと裕福な人なんだろうと判断し、お言葉に甘える事にした。
他にもおっさんはポテトチップスとコーラも買ってくれて、まさにアメリカ人だな、と思わせてくれた。

日もすっかり暮れた頃、バスはバンコクに着き、そこからタクシーでカオサンへ向かった。
私は前に玲ちゃんと泊まったガラの悪い宿へ向かったが(そこしか覚えてない)、
おっさんが「ここはないだろう」というので、もう少し質の良い宿を探した。
おっさんはカオサンが初めてで、このテの安宿というのがもうすでに信じられないらしく、
新しく決めた宿もその狭さに文句をたれていたが、私はもう疲れ切っていたので、聞こえないフリをして、そこに決めた。

24日目。9月10日。
翌日おっさんはやはりこの汚いカオサンの雰囲気が耐えられないらしく、
ビーチで有名なパタヤへ行くと言って、リッチにタクシーで去っていった。
私は少しカオサンを散策して、それから航空券の日程を変更した。
本当は、帰りの台湾は空港で一泊するだけの予定でいたのだが、どうせだから見て帰りたくなり
タイを発つ日を一日早めてもらう事にしたのだ。これで、台湾で2泊する事になる。
タイ最後の日になったこの日は、ボーベー市場と、なんとかナイトバザールへ行った。
市場はほとんど外国人がいない、かなりローカルな市場で、私はそこでポロシャツを相当安くゲットした。
そんなポロシャツを当時の彼氏の誕生日プレゼントに、と買った私は最低の女だ。
いや、一応言っておくけど、この市場は一般に流通する前の商品を扱っているため価格が安いというだけで、商品の質自体は全く問題ないのだよ。

市場に反してナイトバザールはカナリ観光化されたもので、つまらなかった。
帰りにトゥクトゥクがつかまらず困っていると、地元の警備員の人が、バスを教えてくれた。
私はタイ庶民と一緒に市バスに乗り、カオサンまで10B足らずで帰って来る事が出来た。
バンコクの渋滞
(上)バンコクの名物、trafic jam。本当にすごかった。



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