ゴア-Goa-
私「ゴアって何時くらいに着くの?」
乗客「うーん・・・明日の夜くらいかなぁ」
・・・?
今昼ですけど?明日の夜?一体何時間列車に乗れと??
夜になり、寝台に横になるが、窓は閉まらないし、寒くて寝られない。
みんなやたら大荷物で乗り込んでいて、一体何が入っているのかと思っていたら、
みんなゴソゴソと毛布を何枚も取り出している。なるほど…。
何もかけるものがない私を見て、一人の女性がショールを1枚貸してくれたが、寒くて寒
くて、
結局ほとんど睡眠をとれぬまま朝になった。
朝になり、昼になった。
昼になり、夜になった。
まだ列車は走っている。
夜の8時を回り、もう一晩明かすんだろうかと思い始めた頃、やっと列車はゴアに着い
た。34時間列車の旅終了。
外はもう真っ暗だ。
これから一人で宿探しをするのは、ちょっと危険じゃないだろうか。
すると、私の目の前に、大きなバックパックを背負ったお兄さんがいた。
ドイツ人の彼は、茶色の巻き毛や背の高さ、雰囲気が、私の心のダーリン、シャイ(前旅参照)にそっくりで、
私は「34時間列車も悪くなかったかもしれないわ…」なんてちょっとガッツポーズした。
二人で駅を出ると、他にも数人のバックパッカーが見つかり、私達計6人は、一番近い宿
へ向かった。
無事にチェックインを済ませ、私達は、レストランで食事をとることにした。
34時間も列車で走ると、気候も変わり、ここは東南アジアのように暑い。
ビーチリゾートのゴアは今が丁度シーズンのようで、たくさんの欧米人客で賑わっていた。
私は普段、この手の欧米人向けレストランはどうも引け目を感じてしまい苦手なのだが、今回は違う。
だって私の他の5人は、ドイツ人・スウェーデン人・ロシア人で、みんな欧米人なんだも
ん♪
旅の間、欧米人を見かける事は多くても、こんな形で席を一緒にする事は初めてで、新しい感覚にドキドキしながら海の魚料理を味
わった。
彼らの内訳は、ドイツ人(仮名シャイ)の他は、スウェーデン人のカップル、ロシア人の夫婦という
事で、
何となくこのシャイと一緒に旅を進める事になりそうかな★とか若干胸をときめかせたのだが、
彼は津波で心に傷を負った人のケアをするために来たのだそうで、翌朝にはゴアを去ってしまった。
彼をバスまで見送り、私はイキナリ1人になってしまった。
(上)ドイツ版シャイ。
とりあえずビーチに行ってみるが、
「私、大してビーチ好きじゃないんだよなぁ…」
そう、私はあまりビーチリゾートには興味がない。
じゃあなんで来たんだという話なのだが、それはデリーの旅行会社の男が勝手に予定を組んだから
で、
まぁ行ってみてもいいかなと思って来てはみたが、やっぱり面白くない。
きっとカップルや友達と来たんなら楽しいんだろうが、私はどうせ1人だ。
(上)ゴアのコルヴァ・ビーチ。たくさんのビーチがあり、特に欧米人に人気。昔はヒッピーの聖地だったらしい。
結局私はビーチ滞在時間30分でそこを去った。
デリーの旅行会社の男はよほどビーチが好きなのか、奴はこの場所に1週間も日を割いている。
(※デリーの旅行会社では、帰国の日までトータルコーディネートした全列車のチケットを作られたのです)
バラナシ行きのチケットの日を早められないかと思い駅へ行ったが、全くダメだった。
たった30分でメインのビーチが終了してしまった私は、これからあと6日間、どう過ごせばよいのだろう。
日を無駄にしたくない、どこか動いていたいという焦りばかりが募っていた。
次の日、私は夜行バスで、プネーという街へ向かう事にした。
前日会ったイギリス人のツーリストがプネーへ向かうと言っており、
結構イケメンだったので、じゃあ1日遅れで追っかけちゃおうかな♪みたいなノリである。
プネー-Pune-
まだ薄暗い中、「プネー!プネー!」と回りの人達に起こされる。
慌ててバスを降りると気づいたら私の荷物を持ってる男がいて、気づいたらトゥクトゥクに乗っていた。
宿を探さなくてはいけないのは確かだったので、とりあえず言われるがままに、近くのホテルへ向かってもらう。
しかし、今はmarriage seasonなんだそうで、どこのホテルに行っても満室が続く。
私がガイドブックの宿を見せても、「それは遠い」と言って、勝手にトゥクトゥクを飛ばす。
無駄にメーターばかり加算されていくのにイライラして「もういいから降りる!」と言うと、
「じゃあ450ルピー(1500円弱)」と、メーターを指して言う。
反論したい事は山ほどあったが、ホテルを探すのにかかった交通費である事には変わりないので、
というかもう早朝で寝ぼけてるし無気力だし、素直に金を払ってトゥクトゥクを追い払った。
…追い払ったはいいものの、行くあても何もない。
私は道路のふちに腰を下ろし、朝日が出るのを待った。
「…どうもうまくいかないなぁ…」
デリーでは奴らの好きなようにプランを組まれてしまった。
そのプランのお陰で、村にホームステイ出来たりもしたけど、
34時間もかけて興味のない南のビーチへ行くはめになってしまった。
来てみたらシャイに激似のツーリストに会えたけど、
翌日にはすぐに去ってしまった。
新しい進展を求めてプネーに来てみたけど、
またインド人にいい様にされてしまった。
もちろんデリーでプランを飲んだのも、トゥクトゥクに乗ったのも、自分の判断で自分の責任なんだけど、
それが逆に自己嫌悪を生み出して、余計に気持ちが凹んでくる。
前の旅みたいに、毎日が楽しい!人間って素晴らしい!って、どうしてもリズム良く行かない。
気づくと、街に朝日が昇り始めていた。
そう、宿もなく、行く先もなく、ただ道路脇に座って一夜を明かしてしまったのだ。
…なんだかこれ以上プネーにいるのが嫌になった私は、気分を一新するために、ここを出る事にした。
行き先はアウランガーバード。
それほど時間をかけずに着く事が出来るし、近くには、サイババ生誕の村がある。
私は気を取りなおしてアウランガーバード行きのバス乗り場へ向かった。
(上)バス乗り場で見つけたサーカスの看板。いかにもスパイダーマンのパクリ。
アウランガーバード-Aurangabad-
バスは夕方アウランガーバードに着き、夜はゆっくりとベッドで寝た。
そして翌日私は近くにある世界遺産、エローラ遺跡を見に行った。
ガイドブックの写真を見る限りではアンコールワットに似ている気がして、あまり興味はなかったのだが、
エローラ遺跡の中の「カイラーサナータ寺院」というのがすごかった。
山を上から彫って作ったから、継ぎ目が一つもないのだそうだ。
人間不可能ってないのかもしれないなぁ…そうだよなぁ、何を言ってもノープロブレムな人達だもん、不可能なんてないさ。
(上)カイラーサナータ寺院。これ全部上から彫られてるから継ぎ目がない。
意外に良かった遺跡観光を終え、宿で一休みした私は、マーケットへ出掛けた。
マーケットはほとんど外国人の姿もなく、観光客ずれしていない下町のようなところだった。
その分市民の視線は痛いほどささりまくったが…。
インド人、彼らは自分の好奇心に正直というか、とにかくジーッと見る。
慣れるとカワイイもんだが、あのデカイ目で四方八方から見つめられるというのは、結構きつい。
マーケットで私は紅茶屋さんを見つけた。
色々な紅茶の葉を量り売りしているのだ。
この店のじいちゃんがメチャメチャいい人で、チャイはご馳走してくれるし、気前よくまけてくれるし、
他の店を回ってまた帰りに寄ると「Mi―――ho―――!!!」と言って歓迎してくれた。
他、小腹を満たしに入ったレストランでは、デジカメに興味を持ったのか、
仕事中のはずのボーイ達がたくさん寄ってきて、自分達を撮るように頼んできた。
みんなあまり英語は話せないけど、みんな素直で面白い。下町、いいねー。
(左)紅茶屋さんのじいちゃん。 (右)レストランの従業員達。
宿に帰ると、日本人の男の人が、フロントのインド人の相手をしていた。
地味に日本人を見るのが久々だった私は、「1人で来たんですか〜?」と声をかけてみた。
すると、彼は「いや、奥さんと2人で…」と答えた。
奥さんと!
しばらくすると、インドのアクセサリーをうまく身につけ、薄汚い私とは大違いの奥さんがやってきた。
夫婦で旅をしている日本人に会うのは初めてだったので、話を伺うと、
この辻夫妻は、毎年1回、2人で旅行に行く約束をしており、去年はジャマイカに行ったそうだ。
当時彼氏から旅に関してあまり同意を得られていなかった荒木、理想の夫婦像ここに見つけたり。
シルディ-Shirdi-
翌日、私はシルディ行きのバスに乗った。
このバスは、バス事情のひどいインドでも格別に素晴らしかった。
常にバス全体がきしむ音がしており、いつボーン!とか言ってもおかしくない危うさがある。
道がボコボコなのにスピードを緩めないので、たまにポーン、ポーンと浮く。
カーブではつかまってないと反対側まで転がるし、気を緩めたらすぐに窓に頭を激打する。
一睡も出来ず疲れたが、お陰様で4時間はあっという間に過ぎた。
さて、このシルディという街(いや、村か)は、サイババ生誕の地である。
村中が、サイババのグッズで埋め尽くされている。
さて、ここでサイババというと、皆さんあのアフロヘアの彼を思い出すでしょう。
しかし、ここのサイババはそのサイババじゃないんです。サイババ違いです。
実は、サイババは、シュリ・サイババとサティア・サイババの2人がいて、
この村は、シュリ・サイババ、アフロの方はサティア・サイババだ。
アフロのサイババは、この村のサイババの生まれ変わりとされている。
生まれ変わり、という事はそう、この村のサイババはもう死んでしまった。
本当は現役のアフロのサイババに会いに行きたかったのだが(南の方にいる)、
そこまで行くと、最後に北上する大事な列車に間に合うか微妙だったので、
今回は大事をとって、近場の元祖サイババで手を打つ事にしたのだ。
泊まったホテルでは若いお兄ちゃん達が数人働いていて、
どういう話の流れからか、夕方のお祈りに一緒に連れて行ってくれる事になった。
…いやー、信仰の力ってすごい。
村の真ん中には、サイババを祭った寺と、
サイババが生前に使っていたものが展示してある小さなミュージアムがあるのだが、
寺ではサイババの歌が流れていて、みんなそれに合わせて歌っているし、
生前サイババの座ったと言われる石には、みんなキスして頭をつけて、なんかお祈りしている。
ホテルのお兄ちゃん達だって私と同じくらいの年齢で、
1番「宗教なんてくだらねーよ!」とか言い出しそうなお年頃なのに、
あまりに真剣にサイババを信じ、私に説いてくれるので、
「ところでサイババって何した人?」とかは間違っても聞く事が出来なかった。
ついでに、彼らの熱心な勧めに負けて、サイババCDを(半強制的に)買わされてしまった。
ちなみにいまだに封を切っていない。
翌日、お兄ちゃん達の中の2人、カランとサリームが、村の観光場所を案内して回ってくれた。
観光を終え、夕方ホテルに戻るとお兄ちゃん達がみんなで私を待っていてくれて、
「大切なフレンドへ」と、ガネーシャ(象の神様)の像をプレゼントしてくれた。
その後彼らは、晩ご飯に誘ってくれて、みんなでレストランへ向かった。
みんなヒンディー語で話しているのに、なぜか内容が理解出来て(多分英語からの引用語が多いから)
疎外感も全く感じず、本当に楽しく過ごす事が出来た。
(左)みんなで晩ご飯。 (右)仕事中のデワ(カランの兄)とサンギータ。
翌日、またみんなで朝ご飯を食べ、それから私はムンバイ行きのバスに乗る。
いよいよ明日、ムンバイから念願のバラナシへ北上するのだ。
みんなバスまで見送りに来てくれて、また来てね、と証明写真を渡してくれた。
どうやら、「顔を忘れないで」と、まぁプリクラのような感覚で、こっちでは証明写真を渡すようだ。
しかも、1人は丁度証明写真がないと言って、サイババの写真をくれた。
サイババの写真を見て君の顔を思い出すのは、ちょっと難しいぞ。
しかしシルディではみんなの優しさに触れて、本当に心が癒された。
前回の東南アジアの旅では、「またここに来たい」と思える場所ばかりだったのに対し、
今回はなかなかそう思える場所がなく、しいて言うならニルの街かなという感じだがニルがいるなら行きたくない。
しかし、ここシルディは、みんなに会うために、また来たいなと思えた。
サイババ様、素晴らしい出会いをありがとうございました。
ムンバイ-Mumbai-
夕方、ムンバイに着く。ムンバイは、首都のデリーに次ぐ、南の大都市だ。
道路の渋滞がものすごく、物価もバカ高い。
宿の平均が100〜200ルピーなインドにおいて、ムンバイは最低でも700ルピーを割る事はなく、
しかもどこに行っても満室で、結局私はこの晩1200ルピー(3600円!!)の部屋に泊まった。
「ムンバイに着いたら電話して!」と言われていたのでシルディに電話をかけ、みんなの声を聞いてジーンとする。
「私はムンバイに来てしまったけど、心はまだシルディだよ…。。。」
この晩はホットシャワーを浴び、洗濯をし、ベッドでゆっくり寝て北上に備えた。
バラナシ-Varanasi-
私はアーグラーからゴアまで南下してくるのに34時間かかった。
という事は。
そう、また34時間かけて北上です。昼ムンバイ発の列車に乗り、翌日の夜11時、バラナシに到着。マジ死ぬって。
宿でぐっすり寝た翌日。
ところで、この後の私の旅の予定としては、バラナシから国境を越えて、ネパールへ入るつもりだ。
もともと、私はネパールにカナリ惹かれるものがあり、今回は、ネパールで大半を過ごすつもりでいた。
まぁ旅行会社でその予定はもろくも崩れ去ったんですけどね。
旅の残りはもう2週間ほどしかなかったが、私はそれをネパールに費やすつもりでいた。
今ネパールには、私の大親友のまなっぺがいる。
今回ほぼ同じ日程でインドに入り、彼女はビザの関係から一足先にネパールへ入った。
すぐにインドへ戻る予定が、
「なんでネパール来ないの〜?イケメン天国で毎日ハイテンションだよ!!」
というわけで、どうやら足を伸ばしているらしい。
私も早くネパールへ行きたいのだが、1つ、なかなか踏みきれない理由があった。
ネパール、今政情が非常に不安定らしいのだ。
まなっぺが入ってすぐの1月末には、緊急ナントカ宣言が出たり、その後も電話などの通信手段が全て遮断されたり、
2月に入って今はだいぶ落ち着いたが、それでも国境が閉鎖されたりストライキで交通網がストップしたり、
要するにあまりかんばしくないという事だ。
現地にいるまなっぺは、一切問題なく安全だと言い張るが、
バラナシの宿のボスに聞いても、レストランのオーナーに聞いても、みんなやめておけと言う。
何を判断基準にすれば良いのだろう…。
行きたい、けど自分の行動には責任を持たないと…。
とりあえず私は悩みつつも外に出た。ガンジス河沿いを散歩する。
川辺(ガートと言う)では、体を洗っている人達がたくさんいるのだが、
よく注意して見てみると、ガートによって、年齢層が分かれているのを発見した。
「どうせ見るなら若い兄ちゃんのがいいな」と思った私は、
10代、20代の兄ちゃんが集まって体を洗っているガートを見つけ、目の保養に、そこに腰を下ろした。
(上)ガート。階段状になっていて、下に降りると河。河に来るのは、人だけではない。犬、ヤギ、牛・・・無法地帯。
あの兄ちゃんはちょっと濃いな、あれはちょっと細すぎ…と番付をしていたところ、
割と上位にランクインしていた兄ちゃんが上がってきた。
そして、私の前に来て立ち止まると、「OK, come with me」と言った。
OKって何だ、OKって、と思ったが、ちょっと面白そうと思って付いて行ってみる事にした。
彼ラジは、自分の家に戻り、川から上がって布1枚巻いていただけだったのをズボンにはき替え、それから映画館に連れて行ってくれた。
映画館は蚊が多く、私は3時間ほどの上映時間内に、両足10ヶ所ずつ刺された。
そういえば、ニルの家に泊まった時も、朝起きたら顔面刺されまくりで、ボコられた人みたいになっていた。
そして、どっちの場合も、一緒にいるインド人は無傷なのだ。
…私の血、おいしいのかしら…?
夜になり、ラジはボートに乗せてくれるという。
ラジは自ら漕ぎ手になり、私達は2人でガンジス河の真ん中へ進んだ。
いくつかのガートでは、プージャという夜のお祈りをやっていて、
たくさんの照明や松明の灯りがまぶしく、お祈りのお経や楽器の演奏が賑やかに聞こえてきた。
しかし、河の真ん中へ進めば進むほど、河の上はシンとしていて、真っ暗だった。
(上)ボートから見えたプージャ。
ふと空を見上げると、そこには数え切れないほどの星が瞬いていた。
「うわー…キレイ…」私はボートの上に仰向けに寝た。
するとラジは「うーん、ボート漕ぐの疲れたなぁ…」
と言ってボートを漕ぐ手を止め、おもむろに覆いかぶさってきたではないか!
「ギャー!何すんねん!」
私の大声に驚いたのか、ラジは「ハハ、ジョーク、ジョーク…」と言ったが、
私はそれ以降、仰向けになった自分の気の緩みを反省しつつ、ラジがきちんとガートまでボートを漕ぐよう、監視していた。
翌日、私はババレストランへ向かった。
実は昨日も私はここへ行った。
オーナーのサシがなかなか話しやすい人で、私はラッシーを片手に、シルディの話や、ネパールへ行きたい話などをした。
驚くべきなのはここからで、
なんとサシ、支払って帰ろうとする私に、
「今日は素敵な話を聞けたから、ラッシー代は払わなくていい」と言うのだ。
いつもなら騙されてばかりで、1ルピーでも多く取られたらわめく私だが、
逆にこう言われると、払わずにはいられない。
するとサシは、「じゃあ明日来た時に受け取るよ」と言った。
私は「明日までに、ネパールに行くか決めるよ」と言っていたので、
その返事を聞かせに来て欲しい、と言われたのだ。
というわけで、私は今日もババレストランへ向かった。
「どうだ、ネパールに行くのか?」
「ごめんサシ、実はまだ決まってないんだ…」
私はまだ次の行き先が決められないでいた。
ネパールに行ってみたい。けど治安面にどうしても不安が残る。
シルディに戻りたい気もする。
こっちに来てからも毎日シルディのみんなと電話していて、
声を聞いているうちに、もう1度みんなに会いたくなってきたのだ。
また、バラナシにこのまま滞在する、という案もあった。
バラナシは沈没地として有名で、月・年単位で滞在する人も多い。
楽器やヨガなどを習ってここにいるのも、それはそれで楽しそうだ。
私は、昨日と同じようにまたラッシーを注文して、屋上でサシと話し始めた。
「find newか、keep oldか、という事か…」
ネパールかシルディか、と迷う私にサシはこう言った。
サシは、見た目はノローンとしているけど、言う事はいつも的を得ている。
そして、気づいたらこの旅の不満をグチり始めている私に、
「旅の前に期待していたほどのものに、まだ出会えていないんだね…?」と言った。
まったくその通りッス。
あまりに私の心を読んだような事ばかり言うので、サイババからサシに信教を移そうとしていた時、
サシは「oldを大事にするのもいいが、
ミホの期待しているものに出会うには、newを見つける事が必要なんじゃないか?」と言った。
サシ、素敵だ、素敵過ぎる…!!!
私はこの一言で、ネパール行きを決めた。
そして、今日こそラッシー代を払おうとしたのだが、サシは結局最後まで受けとってくれなかった。
これが、後にも先にも、インド人がお金を受け取らなかった最初で最後の出来事である。
(上)ババレストランの屋上から撮ったバラナシの街並み。
ババレストランを去った後、ガート沿いをまた散歩していると、ラジに見つかった。
ラジは、自分の大学に連れて行ってくれて、大学の庭で一緒に日光浴をしたり、
夕暮れ時には私の買い物に付き合ってくれて、リクエストする場所全てに連れて行ってくれた。
夜になり、今日もボートで襲われるのかなと思ったら、普通に「Good Journey!!」とか言って、握手して別れた。
気づいてみたら、ボートとかリキシャとか全部お金払ってくれてたし、ちょっと気の迷いが出た時もあったが、
ラジ、普通にイイ奴だったのかな…。
しかし、日本に帰って来てから受け取ったメールは、「Hi,Araki」で始まっており、
ミホ、としか自己紹介してないのに、明らかに私が渡した紙見て打ってるな、名前も覚えてなかったのかよというのがバレバレだった。
まぁそんなもんか。
(上)2日一緒にいたラジ。結局何だったんだろう、この人・・・。
その日の夜は、宿のボスと一緒に飲んで過ごした。
「いい人に出会えたらその街はいい(思い出の)街になる」と言われ、
私は色々な人の顔を思い出していた。
何だかんだ、たくさんの思い出できてるよなー、インド。
それにしても、サシといいこのボスといい、みんな味のある事言うなぁ。
さすが聖地バラナシ、あなどれない…。
そして翌日、私は念願のネパールに向かう事となった。
(左)ガンジス河からの朝日。 (中)朝、河に祈る人。この後沐浴する。 (右)部屋にいたヤモリ。
ネパールへ 旅一覧に戻る